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遺灰を〇むのは偶像崇拝か? [マインドセットに関して]

スピリチュアルメルマガ!

江上社長メルマガシェアです。

今回は、得意分野の質問への回答が
記載されてました。

ちょっと自分には・・・・・

皆さんはどうお思いでしょうか?

それではどうぞ!!
________________________
遺灰を拝むのは偶像崇拝か?

大切な質問がきていたので
ご紹介します。

- - -
江上さんこんばんは。

1つ引っかかってしまいました。
セドナ寄付の件のフレーズです。

ご回答頂けないでしょうか?

***以下抜粋***
世界中から仲間が集まります。
皆でレクチャーのレビュービデオ
を見て祈ります。
博士の遺灰が来るので拝みます。
現地のスタディグループ拝みます。

「博士の遺灰が来るので拝みます。」
です。

これは聖書の偶像崇拝に
あたる行為になりませんか?

責める意図はありませんが
ただ引っかかってしまって、、、。

純粋に、です。
よろしくお願いします。
- - -
メッセージありがとうございます^^

お気持ちはよくよくわかります。

10代の頃の私なら
このメルマガはとっくの昔に
解除しているレベルです 笑

結論をいえば、そうはなりません。

ただ、補足というか注意点があります。

偶像崇拝とはなにか?

その本質をみる必要があります。

まず、キリスト教諸派の中で
何が偶像崇拝なのか?
について考え方が違っています。

カトリックとプロテスタント
の違いがもっとも大きいですね。

プロテスタントの諸派は、
カトリックのような儀礼的なものや
シンボルをほぼすべて排除しました。

十字架だけが残っています。

余談ですが
私が子供の頃にいた
某エセキリスト教派では
十字架すらも偶像としていたので、
神を表すものは、
礼拝の場に何もありませんでした。

おそらく、

どこからどこまでが偶像崇拝か?

という議論は、

キリスト教そのものが成立した頃から
2000年弱続いているものと思われます。

それ以前にユダヤ教が
アブラハムの頃からありますから、

約4000年は
人々の間で白熱の議論
だったのではないでしょうか。

キリスト教の兄弟宗教である、
ユダヤ教、イスラム教では
なにが偶像崇拝か?について
もっと考え方が違っています。

いままで挙げた中でも
イスラム教が一番厳しくて、
神を表すのは文字のみがゆるされます。

理屈としては、
文字は単に指し示すものだからOK
という感じです。

※細かい点は違いますが、
 どれも同じ神を指しています。
 (アブラハムとイサクの神)

 意識のマップなどを持ち出さずとも、
 宗教学的に明らかなことです。念のため。

さて、本題に入りますが、

私はこの件で
最終解決・納得するに至ったのは、
「すべての礼拝の受け取り手は私である」

という、
バガヴァッド・ギーターにある言葉と、

バガヴァッド・ギーターの意識レベルが
900台であることを確認したためでした。

聖書だろうがコーランだろうが
ギーターだろうが仏典だろうが、

そもそも【神】は1つしかないので
どれも本当は同じものをさしているはずです。

そして、それは人知を超えたものであることも。

旧約聖書の一部だけでなく
多数の文化によくある
「荒ぶる神」というのは、
真なる神の姿ではありません。

これは、
意識のマップの一番左端を見れば、

神というのは単に見る人の状態によって
イメージが変わるだけだとわかります。

意識の状態によって
感情や人生観が変わるのと同じく、

神への見方も変わります。

これが、様々な論争の原点といえます。

自分の思う神こそ正しい、ってのが
気づきにくい最大の(自我の)
ワナなんですね。

キリスト教的にいうと
サタンのワナです。

で、
天、究極の実在、
源、すべての創造主にしてすべての存在、

といった言葉は
【神】の性質を表しており、

これに向けて祈るのであれば
(意識レベル200以上なら)
何を通してであれ、

それは神への崇拝になります。

ここを理解せず
ただ単にご先祖様などに祈っている場合は、
偶像崇拝になりますね。

三位一体を受け入れず
キリストを崇拝する場合も、
偶像崇拝になります。
(ちょっと考えにくいですが
 そういう宗派は存在します)

キリスト=神だから、
キリストに祈ることは
キリスト教で偶像崇拝ではない
と認められていますね。

いきなり飛躍して
理解がおいつかないかもですが、
ブッダ(お釈迦様)は
中身はキリストと同じで、

単に時代と言語が違うから
呼び名が違うだけです。


これは無理に受け入れなくてよいです。
救済のためには、その必要はないからです。

ブッダとは
「悟った人」という意味の単語で
一般には釈迦牟尼を指しているだけの話し。

イエスというのもただの名前ですが、
一般にはキリストのことを指しますね。

我々は、
特定の人間そのものではなく
その【神】なる本性 を
崇拝しているはずです。

このあたりがややこしいので、

Christ Consciousness(キリスト意識)
Buddhahood(仏性)

という言葉が
神学などでは昔からあって、

悟りに至った聖者たちの証言に加え、

意識のマップをはじめとした
デヴィッド・ホーキンズ博士の
研究でピリオドが打たれたのは、

Christ Consciousness(キリスト意識)
Buddhahood(仏性)

どちらも完全に同じ、

意識レベル無限大のもの =【神】
だということです。

バガヴァッド・ギーターで描かれている
クリシュナも同じです。

無数にあるインド系宗派での表現は知りませんが、
劣化しているものはどうでもいいです。

ともかく、
クリスチャンとしてみるなら、

聖書にある神の表現は
他の聖典の本質が示す神と
何ら変わることがなく、

I am the Lord thy God, ye shall have no other gods before me.
(私は神、汝の主である。私の他に神を持ってはならない)

というフレーズは、
まさにその通りのことだと腑に落ちます。

【神】と神々はまったくの別物で、

神々 gods は単にすごいパワーの存在、
というだけ。

天使、大天使と同じです。

そういえばカトリックでは
聖母マリアや大天使を信仰していますが、

これが偶像崇拝とされないのは
本質的には【神】を崇拝する
ひとつの形に過ぎない、

と、認識されているためと思われます。

詳しくは
神学者トマス・アクィナスなどを見れば
既に決着のついた話しと思います。

くどくど長くなってきましたが、

博士の遺灰、
つまり悟りに至った聖者の遺灰を拝むのは、

使徒ペテロの遺灰を拝むのと同じで、
釈迦牟尼の遺骨etc. を拝むのと同じで、

アッラーと書かれた
アラビア文字を拝むのと同じで、

もし存在していれば
人間イエスの遺骨などを拝むのと同じで、

極論、
100均のアクセサリの十字架を
握って祈るのと同じで、

その祈りの受け取り手は
ただ一つの真なる【神】だと
認識した上での行為です。

質問してくださったあなただけでなく、
読者の理解度がさまざまなので、

変に誤解して
信仰を失ってしまわないよう、

かなり気をつけて書いていますが、

理解できればいいなと思います。

「真理は人を自由にする」

というのは、
鬼も悪魔も何でもアリ、
ってことではなくて、

真理=【神】のみを抱くことで
他のすべての実在しないものから
自由になるということです。

これほどの救いはこの世にありません。

Amen.
(そうありますように。)
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